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与謝野晶子について
略歴
与謝野晶子は、明治11年(1878)12月7日堺県堺区(現大阪府堺市)甲斐町四六番屋敷で和菓子商を営んでいた鳳宗七・津祢を父母として生まれました。本名を志ようといいます。

晶子は、明治28年(1895)頃から歌を雑誌に投稿し始めました。当初は、旧派の歌を作っていましたが、河井酔茗や河野鉄南たちが中心になって結成し ていた浪華青年文学会(のち「関西青年文学会」)堺支会に明治32年に入会し、新しい短歌を詠いだしました。

当時の日本では、ヨーロッパの詩の影響で短歌革新運動が起こり始めていました。革新運動の主唱者の一人である与謝野寛(号鉄幹)は明治32年(1899) 文学結社「東京新詩社」を結成し、翌年に機関誌『明星』を創刊しました。寛は、結社への参加者や同調者を獲得するため明治33年に関西地方へやって来まし た。『明星』に作品を投稿するようになっていた晶子は、大阪で寛と会って彼の行動に強く共鳴するようになって上京し、明治34年には、二人は結婚しまし た。
 
彼女が明治34年に出した第一歌集『みだれ髪』は当時の多くの青年たちの心を捉え、「明星派」は当時の文学世界に大きな影響を与えることとなりました。

晶子が日露戦争中の明治37年(1904)に発表した長詩「君死にたまふこと勿れ」は従軍中の弟籌三郎の身を案じて詠んだものですが、内容が国賊的であると批判を受けました。彼女はまことの心を詠んだだけであると主張し、一歩も退きませんでした。
 
その後、彼女は次第に寛の名声を凌ぐようになりますが、自然主義の勃興と北原白秋・吉井勇たち有力会員の脱退のなかで明治41年(1908)『明星』は 廃刊しました。その後、意気消沈していた夫に立ち直るきっかけを与えるため、晶子は寛が希望していたヨーロッパ留学の実現に奔走しました。ヨーロッパへ出 発した夫を追いかけて彼女も渡航し、そこで得た体験を基にして彼女は更なる境地を拓きました。

大正時代には、彼女は社会評論を多く執筆するようになり、大正デモクラシー陣営の一翼を担いました。国家による母性保護を主張する平塚らいてうと、全て の女性が経済的に独立する女権主義を提唱する晶子の間で行われた母性保護論争は、この時期において白眉のものであり、現在においても重要な意義を有しま す。
 
晶子は、彼女の理念である自由主義を骨子とし、芸術による人格の陶冶をめざす教育の実現をめざして西村伊作や石井柏亭、夫の寛たちとともに大正10年(1921)文化学院を創設し、実践活動を行っています。
 
古典研究は、短歌創作や評論活動、教育活動などと並んで晶子が活躍した重要な分野の一つであり、特に「源氏物語」については、現代語訳を生涯で三回行っ ています。一回目は『新訳源氏物語』(明治45年〜大正2年・1912〜1913、金尾文淵堂刊)で、二回目は関東大震災で原稿が焼失したもの、三回目は 『新新訳源氏物語』(昭和13年〜同14年・1938〜1939、金尾文淵堂刊)です。彼女の古典の現代語訳には「源氏物語」のほかに『新訳栄華物語』 (大正3年〜同4年・1914〜1915、金尾文淵堂刊)、『和泉式部歌集』(大正4年、名著評論社刊)など多数あり、正宗敦夫や夫の寛とともに『日本古 典全集』(第一期 大正14年〜昭和6年・1925〜1931、第二期大正15年〜昭和3年・1926〜1928、日本古典全集刊行会刊)も編集していま す。
 
晶子の多彩で真摯な活動は現在文学面だけでなく教育・言論界など多方面から高く評価されています。
年譜
堺時代
明治11年(1878)
12月7日、堺県堺区(現大阪府堺市)甲斐町四六番屋敷で鳳宗七・津祢を父母として生まれる。本名を志ようという。
明治17年(1884) 4月、宿院尋常小学校に入学する。
明治21年(1888)
宿院尋常小学校卒業する。
宿院尋常小学校高等科に入学し、のち新設の堺女学校へ転校する。
明治22年(1889) この頃、父の蔵書中の古典や歴史関係の書物を読みふけるようになる。
明治25年(1892) 堺女学校卒業し、同校補習科に入学する。
明治27年(1894) 堺女学校補習科卒業する。
明治28年(1895) 9月、『文芸倶楽部』第9編に鳳晶子の名で短歌掲載される。
明治29年(1896)
5月、堺敷島会尋常会員となる。同月、『堺敷島会歌集』第3集に鳳晶子の名で短歌掲載される。以後、同誌にしばらく短歌を発表する。
明治30年(1897)
7月、浪華青年文学会(のちに「関西青年文学会」)創設、機関誌『よしあし草』(のちに『関西文学』創刊。
明治31年(1898) 4月、「読売新聞」で初めて与謝野寛の短歌を知る。12月、浪華青年文学会堺支会設立される。
明治32年(1899)

2月、浪華青年文学会(同月より「関西青年文学会」)堺支会に入会する。『よしあし草』11号に新体詩「春月」を鳳小舟の名で発表する。以後、新体詩や短歌を同誌に発表する。
11月、寛、東京新詩社創設する。
花開くロマン主義
明治33年(1900)




1月、浜寺鶴廼家で催された関西青年 文学会堺支会の新年会で河野鉄南に初めて会う。4月、東京新詩社機関誌『明星』創刊。東京新詩社社友となる。5月、『明星』第2号に「花がたみ」の題で短 歌6首が掲載される。これ以後、『明星』が晶子の活躍の主舞台となる。8月、来阪した寛と北浜平井旅館で初めて会う。堺浜寺寿命館で催された歌会に晶子は 寛、河野鉄南、山川登美子等とともに参加する。11月、寛、晶子、山川登美子が京都粟田山に遊ぶ。『明星』第8号発禁処分を受ける。
明治34年(1901)
3月、寛を誹謗する「文壇照魔鏡」事件が起きる。6月、晶子上京する。8月、歌集『みだれ髪』刊行。9月、寛、先妻林滝野と離婚する。10月、寛と結婚する。
明治35年(1902) 11月、長男光誕生する。
明治36年(1903) 9月、父鳳宗七死去する。
明治37年(1904)


11月、歌集『小扇』刊行。5月、詩歌 集『毒草』(寛と共著)刊行。7月、次男秀(しげる)誕生する。9月、『明星』辰歳第9号に長詩「君死にたまふこと勿れ」を発表する。10月、『太陽』第 10巻第13号上で大町桂月は上記の長詩を批判する。11月、『明星』辰歳第11号の「ひらきぶみ」で大町桂月に対し反論を行う。
明治38年(1905) 1月、詩歌集『恋衣』(山川登美子、増田雅子と共著)刊行。
明治39年(1906) 1月、歌集『舞姫』刊行。9月、歌集『夢之華』刊行。
明治40年(1907)
1月、選歌集『黒髪』刊行。2月、母、津祢死去する。3月、長女八峰、次女七瀬誕生する。6月、馬場孤蝶、生田長江等とともに閨秀文学会の講師を引き受ける。
文化活動の転機
明治41年(1908)
1月、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎等新詩社脱退する。自然主義全盛。伊藤左千夫等が『アララギ』創刊。7月、歌集『常夏』刊行。11月『明星』第100号で廃刊。
明治42年(1909)

1月、北原白秋等が『スバル』を創刊。 3月、3男麟誕生する。4月、山川登美子死去する。5月、歌集『佐保姫』刊行。『トキハギ』(新詩社月報)創刊。9月、小林政治のすすめにより『源氏物 語』の口語訳執筆始める。秋頃から自宅で『万葉集』、『源氏物語』の講義を寛とともに始める。
明治43年(1910) 2月、3女佐保子誕生する。3月、観潮楼歌会に出席する。5月、『トキハギ』終刊。
明治44年(1911)

1月、歌集『春泥集』刊行。2月、4女宇智子誕生する。7月、評論集『一隅より』刊行。寛の渡航費を工面するため歌屏風、歌幅等の頒布を企てる。9月、青鞜社創立、晶子賛助会員となる。『青鞜』第1巻第1号に詩「そぞろごと」発表。11月、寛渡欧する。
明治45年(1912)
1月、歌集『青海波』刊行。2月、『新訳源氏物語』刊行開始。5月、晶子渡欧する。10月、晶子単身帰国する。
大正 2年(1913)
1月、寛帰国する。4月、4男アウギュスト誕生する。6月から9月まで『朝日新聞』に長編小説「明るみへ」を連載執筆する。12月、『スバル』廃刊。
大正 3年(1914)
1月、詩歌集『夏より秋へ』刊行。5月、紀行文『巴里より』(寛と共著)刊行。6月、童話集『八つの夜』刊行。7月、『新訳栄華物語』上中巻刊行(〜翌年3月)。第一次世界大戦始まる。
大正 4年(1915)

1月、『和泉式部歌集』(寛と共著)刊行。『太陽』に「婦人界評論」連載執筆始める。3月、5女エレンヌ誕生する。『新訳栄華物語』下巻、詩歌集『さくら草』刊行。5月、評論集『雑記帳』刊行。9月、童話『うねうね川』刊行。12月、歌論書『歌の作りやう』刊行。
大正 5年(1916)

1月、歌集『朱葉集』、小説『明るみ へ』刊行。2月、歌論書『短歌三百講』刊行。3月、5男健誕生する。4月、評論集『人及び女として』刊行。5月、詩歌集『舞ごろも』刊行。7月、『新訳紫 式部日記・新訳和泉式部日記』刊行する。上田敏死去する。11月、『新訳徒然草』刊行。
大正 6年(1917)
1月、評論集『我等何を求むるか』刊行。2月、歌集『晶子新集』刊行。10月、
評論集『愛、理性及び勇気』刊行。11番目の子寸誕生する(2日で死去)。
大正 7年(1918)
5月、評論集『若き友へ』刊行。6月より平塚らいてう等と母性保護論争を展開する。8月、米騒動起こる。シベリア出兵宣言。この年に小林政治が天佑社創立し、寛、晶子企画に参画する。
大正 8年(1919)

1月、評論集『心頭雑草』刊行。3月、 6女藤子誕生する。4月、寛、慶応義塾大学文学部教授に就任。5月、童話集『行って参ります』刊行。8月、歌集『火の鳥』、評論集『激動の中を行く』刊 行。10月、歌論書『晶子歌話』刊行。『晶子短歌全集』(全3巻)刊行(〜翌年10月)。
大正 9年(1920) 5月、評論集『女人創造』、『青海波』(イタリア語版)刊行。
第2次「明星」と「冬柏」時代
大正10年(1921)
1月、歌集『太陽と薔薇』刊行。3月、評論集『人間礼拝』刊行。4月、西村伊作、石井柏亭、河崎なつ、寛とともに文化学院を設立し、晶子は学監に就任。11月、第二次『明星』創刊。
大正11年(1922)
7月、 死去する。9月、歌集『草の夢』刊行。
大正12年(1923)
1月、『晶子恋歌抄』刊行。2月、寛満50歳の誕生祝賀会を開催する。4月、評論集『愛の創作』刊行。9月、関東大震災により「源氏物語」の完訳原稿数千枚が文化学院とともに焼失。
大正13年(1924) 5月、歌集『流星の道』刊行。12月、婦人参政権獲得期成同盟会の創立委員の1人となる。
大正14年(1925)

1月、歌集『瑠璃光』刊行。4月、文化学院に大学部設置され、寛が文化学院本科長に就任。7月、評論集『砂に書く』刊行。9月、自選歌集『人間往来迪』刊行。10月、寛等とともに『日本古典全集』の編者となる。11月、童話『藤太郎の旅』刊行。
大正15年(1926) 6月、評論集『与謝野晶子論文集』(中国語訳)刊行。10月、次女七瀬結婚。
昭和 2年(1927)
4月、第二次『明星』休刊(事実上の廃刊)。9月、東京府下井荻村字下荻窪へ転居、遙青書屋・采花荘と名付ける。
昭和 3年(1928)
4月、長男光、小林政治の3女迪子と結婚。5月、寛と満州、満蒙(現中華人民共和国東北部)へ旅行(〜6月)。6月、歌集『心の遠景』刊行。7月、評論集『光る雲』刊行。
昭和 4年(1929)

1月、『晶子詩篇全集』刊行。9月、『現代日本文学全集』第38巻、礼厳、寛、晶子収録される。10月、与謝野寛集・与謝野晶子集』(『改造社『現代短歌全集第5巻)刊行。12月、歌集『霧島の歌』(寛と共著)刊行。晶子満50歳の誕生祝賀会開催。
昭和 5年(1930)
3月、寛、文化学院退職。結社誌『冬柏』創刊。4月、晶子、文化学院女学部長に就任。「婦選の歌」を作詞し、第一回日本婦選大会に出席。5月、歌文集『満蒙遊記』(寛と共著)刊行。
昭和 6年(1931) 2月、評論集『街頭に送る』刊行。9月、満州事変起こる。
昭和 7年(1932) 3月、寛、慶応義塾大学退職。「爆弾三勇士の歌」大阪毎日新聞・東京日日新聞の懸賞に当選。
昭和 8年(1933)

2月、寛満60歳誕生祝賀会催す。同人より祝賀歌集『梅花集』贈られる。高島屋で寛と晶子の著書展覧会。『与謝野寛短歌全集』刊行。6月、『冬柏』発行所を平野万里宅から自宅へ移す。9月、改造社版『与謝野晶子全集』刊行開始(〜翌年9月)。
昭和 9年(1934) 1月、晶子、狭心症の発作起こす。2月、評論集『優勝者となれ』刊行。
昭和10年(1935) 3月、寛、急性肺炎のため死去。5月、『与謝野寛遺稿歌集』(与謝野光編)刊行。
11月、次男秀結婚。この年『みだれ髪』(英語訳)ボストンで刊行。
昭和11年(1936) 3月、寛の一周忌法要を営む。10月、『短歌文学全集・与謝野晶子篇』刊行。4男c結婚。
昭和12年(1937)
3月、寛の三回忌法要を営む。5女エレンヌ結婚。7月、日華事変起こる。8月、高野山夏期大学で講師となる。この年『新万葉集』(改造社版)の唯一の女性選者となる。
昭和13年(1938)
4月、盲腸炎手術のため入院。5月、京都鞍馬寺に寛の歌碑建立。7月、『与謝野晶子歌集』(岩波文庫)刊行。10月、『新新訳源氏物語』刊行(〜翌年9月)12月、肺炎にて入院。
昭和14年(1939) 7月、4女宇智子結婚。10月、『新新訳源氏物語』完成祝賀会開催。
昭和15年(1940)
3月、5男健結婚。5月、脳溢血で倒れ、以後右半身不随となる。9月、洗礼を受ける。10月、6女藤子、長女八峰結婚。
昭和16年(1941)
3月、円覚寺で、5月、鞍馬寺で寛七周忌法要が営まれるが、晶子不参。12月、63回誕辰祝賀会催す。太平洋戦争勃発。
昭和17年(1942)

1月、症状悪化。5月18日、尿毒症併発。29日死去。6月1日告別式、多磨霊園の寛の隣に埋葬。法名「白桜院鳳翔耀大姉」。9月、遺稿歌集『白桜集』(平野万里編)刊行。11月、歌文集『落花抄』刊行。
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